月の兎と蓬莱の玉の枝

 ふるさとは遠きにありて思うもの
 そして悲しくうたうもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆうぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや

「あら、今宵の月は紅いのね」
 月の咎人が幻想郷へと身を寄せて幾星霜、本物の月を見なくなって久しい。天蓋に映る月の残り香は大気の影響を受けて色合いを、形を、波長を変える。移ろいやすい地上を月の民は忌まわしき物と遠ざけ、その癖ちょっかいをかける。
 本当は興味津々で羨ましいのだわ。
 素直になればいいのに、と、素直になりすぎたが為に蓬莱の薬を (こしら) え、口にして地上へと堕ちた月の姫は呟いた。
 部屋の奥に仕舞い込まれた盆栽を持ち出し、縁側に置く。月人が地上人に与えた優曇華の木、またの名を蓬莱の玉の枝は根は白銀、茎は黄金。実は白玉にうり二つと謳われた天下の至宝。が、残念ながら姫の手許にある盆栽はまだ実を付けるには程遠い。僅かな力しか持たない若い枝でさえ偽の月の欠片を受けこうも妖しく輝くのだから、実を一杯に付けた優曇華の木が真の月の下にあったなら、さぞや狂おしいまでの美しさなのだろう。
 この輝きにどれ程の人妖が魅せられ、血を流してきたのだろうかと輝夜はぼんやり考える。
 本当は血の色に魅せられているんだわ。
 だけど、穢れは怖いから、だから、地上の民に血を流させているんだわ。
 ふと、瞼の裏に地にまみれた一人の姿が思い浮かぶ。アレこそ穢れた人の最たる者だ。が……。
 薬を奪った事への怒りも、薬を服んだ愚かさへの嘲りも、輝夜には遠い。
 あの子は、永遠を須臾の様に生きているんだわ。
 羨み。
 穢れを選び取り、永遠を生きると決めた癖に、月の使者に怯え時を止めた屋敷の奥でひっそりと暮らすを余儀なくされた輝夜は微苦笑を浮かべた―――そんな己の愚かしさに。
 だからといって、月に戻るなんて有り得ない。
 戻ったところで殆ど変わってないんだろうけど。
 輝夜は呟く。二択処の騒ぎでは無い。四季の彩りすら無い退屈な生活など! 地上の喧噪に比べれば七色とモノクローム程の差だ。
 変化を怖れ、穢れを遠ざける余りに緩やかな衰亡への道を選んだ月の民。変化に焦がれ、自ら穢れを引き受けた月の姫。どうして二者が相容れよう。どうせ以前だって戻ったって、箱入りなのは今と変わらないのだから、折角の四季を楽しめる今の方が輝夜にはずっと好ましかった。生憎屋敷の中は永琳の力を借りた永遠の術故に、四季の恩恵を受けられないでいたのだが。
 此も、孵る事は無いのだわ。
 姫の袂には月光を受け、優曇華の卵が優しく輝いていた。
 蓬莱の玉の枝に蜻蛉の卵なんて、粋だわね。
 姫が久方に蓬莱の玉の枝を愛でて懐かしんでいると、背なの障子がすっと開く。
「姫」
「あら、××」
「その名前は捨てました。……月に思いを馳せていらしたのですか」
「ええ……何かが起こりそうな月ね」
「忌まわしい月です」永琳は断じた。普段から余り笑わない月の賢者だが、其の面差しは何時になく険しい。
「そんな怖い顔しなくても。偶には笑ったら?」
 永琳は姫を無視して話を続けた。
「姫の予感は的中しております。てゐ、例の者を呼んで来なさい」
 てゐに連れられて姿を現した一羽のイナバに、輝夜の顔が曇る。
 一目見て軍人と解るブレザー、紅い瞳。
 イナバは、月の兎、即ち玉兎であった。

 玉兎は名をレイセンと名乗った。
 永遠亭に巡らされた均衡をいとも容易く玉兎が打ち砕いた事に、月の頭脳は驚きを隠せなかった。この玉兎が波長を操る程度の能力を持つという話が事実なら可能ではあるが、てゐの幸運を導く程度の能力と永遠亭周辺に巡らされた竹林の深さを容易く擦り抜ける存在がホイホイと現れる事までは想定していなかったのだ。教え子姉妹当たりが踏み込んで来る事があれば別だが、彼女らは永琳の信奉者だし、他の月人とて余程の命が無い限り、好んで地上に足を踏み入れる事はあるまい。死と穢れを何より忌む月人が、有り余る長い時を捨ててまで永琳達を連れ戻したいとは思わないだろう。現に月の使者は永琳の手で残らず殺されたのだから。
 深く考え込む永琳を余所に、レイセンは滔々と己の身の上を語った。曰く、地上の民が表の月を侵略し、月面は戦争状態なのだとか。月側の被害はかなりの物で、月に自分達の旗を立てて勝手に領土宣言までやってのけたという。レイセンは戦争を前にこれは勝ち目がないと逃亡し、地上へ、そして人外が住むという幻想郷の話を聞きつけ、逃げ込んだという訳だ。
「八意××様、私も月に戻れば大罪人。穢れた地上ではありますが、もう戻る気はありません。その証拠に」
 レイセンは懐から月の羽衣を取り出すや、羽衣を真っ二つに引き裂いた。身を裂かれた羽衣は永遠亭の澱んだ大気にたゆとうて、やがて地に墜ち、穢れを受けた。
「私には戻る処はもう、御座いません」

「仲間を見捨てて逃げる様な卑怯者を、どう信用しろというのかしら?」
 レイセンの大仰な身振りも、パフォーマンスも、しかし冷徹な月の頭脳の魂を揺さぶるには至らなかった。兎と言えば地上の其れも月の其れも臆病と相場が決まっており、しばしば保身の為に嘘を吐く。月の使者が送り込んだスパイであれば、羽衣を引き裂いて見せた処で月へ戻る手段など何とでもなろう。しかも、玉兎同志は月と地上ほど離れていても大きな耳で会話が出来る。いくら天才といえど会話の内容を知る術は無い。
 あからさまに怪しむ永琳に、輝夜が肘で横やりを入れる。
「ちょっと、永琳。あの子怯えてるじゃないの」
「姫は鷹揚でいらっしゃるから」永琳はさらりと姫を躱す。が、輝夜は食い下がる。
「永琳は先ず、偽りありきで物を見るからいけないのよ。いくら嘘を吐くにしたって、もし私ならもう少し増しな嘘を吐くわ。穢れた地上の民が月を侵略するなんて、荒唐無稽にも程があるわ」
「だから、嘘だと」
「信じて貰いたければ、そんな白々しい、誰が聞いても嘘と解る様な嘘は吐きません」輝夜は断じると、再びゆるりとレイセンに向き直る。 射干玉(ぬばたま) の闇に溶け込みそうな永い髪が、遅れて揺れる。
 姫。貴女は地上に毒されすぎているのです。
 永琳はぽつりと、漏らす。
 解ってからでは遅いのです。月に帰りたいのですか?
 永琳は知っていた。輝夜の罪が許される事など決してないだろう。あれは月に輝夜を連れ戻して軟禁する為の方便だと。輝夜が戻れば、嫦娥の様に忌まわしい過ちとして永遠に幽閉される事は解り切っていた。穢れを厭い、変化を拒みつつも焦がれて病まぬ月人が、自ら穢れを受け容れ、何の躊躇も無く地上に降りた姫を妬まぬだろうか?
 否、許す筈がない。必ずや、輝夜を連れ戻した曉には姫を閉じ込め、穢れた罪人として晒し者にし続けるだろう。
 だから、永琳は姫と逃げた。蓬莱の薬を飲んで。
 輝夜を永遠の苦輪に縛り付けたのは己の所為。
「永琳、あの時みたいな顔をしてるわ」
「私、そんなすごい顔してました?」
 輝夜は黙って玉兎を指す。玉兎は紅い眼をまん丸に見張り、月に穴を空けんばかりに永琳を凝視していた。あまりにも型通りで滑稽極まりない怯えぶりに、流石の永琳もむ、と押し黙る。己の運命を握られている存在に疑われているのだから詮無いとはいえ、マンガみたいな顔の玉兎に好奇心を擽られた輝夜は見た目に反して軽やかな所作で縁側へと降りた。遅れて裾が広がり、月下の一輪を思わせる。が、続く動作は何処か頑是無い。
 縁側に座り込むと、輝夜は玉兎の顔をじっと覗き込む。小首を傾げる仕草が、あどけなくもあり、何処か頼りなげでもある。
「レイセンちゃん、そんなに怯えないで。ね?」
「全く、姫様はそんな風だから、地上のイナバにも舐められるのです」永琳は肩を竦め、二人の遣り取りをニヤニヤ顔で見守るてゐを一瞥した。
「いいじゃない、私は永琳みたいに怖れられていたいとは思わないもの。怖がられ役は一人で充分よ」口元を隠しても隠しても零れ出る笑み。握り締められたレイセンの拳が僅かに緩む幽かな動きを、袖の内に隠れた瞳が捕らえる。
 袖が翻り、裾が不意に払われた。月を映す双眸が、狂気の瞳を捕らえる。
 月光に塗り替えられる陰影。射干玉に溶け入る黒髪。
「地上に骨を埋める覚悟はあるのですね、レイセン?」
 双眸には月の姫―――穢れを受けてなお高貴さを失わぬ、真の月にも似た圧倒的な迄の威容。
 玉兎は気を呑まれ、水飲み鳥の様にただ頷くしかなかった。
 まったく、と永琳は溜め息を付く。姫には叶わないわ。「その覚悟は本物かしらね」
「あら、偽物の覚悟だなんて、まさかねえ」輝夜が玉兎の肩を叩くと、レイセンははい、その通りです、煮るなり焼くなりお好きになさって下さいましと頭を下げた。永琳は納得したのか、文机を引き寄せ、墨をする。滑らかな、しかし緩慢な動き。須臾を伺っている様でも、焦らされている様でも、ある。
 ならば、レイセン。貴女に新たな名を与えましょう。
 永琳は筆を取り、達筆だが色気の無い字で『鈴仙』の二字を檀紙に書いてみせた。
 レイセン、これが貴女の地上での、新しい名前です。名前を綴る際にはこう書きなさい。
「ふふ、いい名前ね」
 そうなんですか、と返す玉兎に、輝夜は檀紙をわざわざ掲げてみせる。
「この字はね、仏具を意味するの」姫は鈴の字を指差した。「穢れを払い、場を浄める清らかな音色を奏でる楽器なのよ。お前の力は波長を操る物だそうだから、鈴の字はお前の名に相応しいのではないかしら。仙は人目を避けて暮らす私達の僕には相応しい名だと思うわ。それに、鈴の歌人なんて素敵な名前じゃないの」
 はぁ、とレイセンは気のない答えを返した。
 異存はないわね、と鈴仙には念を押し、月の頭脳は姫へと感謝の念を込めつつ目配せを交わす。実に、当主の細やかな気遣いには畏れ入る。学者でもある月の頭脳も、姫の人心掌握術には全く叶わない。生憎、其れを活かす場所は無いのだが。
 とは言え、永琳は此にて良しとするつもりは微塵もなかった。別の名前を付けるは名の力を薄れさせる為。別の呼び名が欲しいところだ。地上には名前の他に氏字を名乗る習慣があるし、字を付けるのも良かろう。はて、如何なる名前が相応しいやら―――。
 ふと、姫の盆栽が目に止まった。
 蓬莱の玉の枝。根は白銀、茎は黄金、実は白玉を宿す宝は、成る程姫への忠誠を誓わせる存在には最も相応しい名である様に思われた。そもそも、この永遠亭に人が訪れる事自体稀な事、そして―――そうそうあってはならない事。
 マレビトにはマレビトらしい名を。永琳は再び、筆を執る。
「鈴仙、貴女には更に、字を授けましょう。此から貴女は優曇華院、と名乗りなさい」
「う、優曇華院……?」
 言葉に詰まる玉兎。姫は目を瞠り、黒檀の上の優曇華に目をやって、成る程ね、と呟いた。蓬莱の玉の枝、白銀の幹に指を這わせ、なぞりあげる。
 姫の袂には、草蜻蛉の卵が月光の残滓を受けてぼんやり光っていた。「吉兆に変えようというのね」
 そうであればいいのですが、と従者はいらえる。姫はころころと笑って、黒と信じれば黒く染まってしまいますよ? と返すと、決して孵らぬ草蜻蛉の卵をじっと見つめていた。
「こんな物が付いていたなんて。縁起でもない、取ってしまいましょう」
 輝夜は従者の手を払う。
「もう殺生はこりごりだわ。いいじゃないの。それに」
「それに?」
 偽りの月が、紅く、懐かしく地上を照らす。
 此で、良いのかも知れない。
「それに、私には予感がするのよ。予感が…………」
 胸騒ぎでなければ良いのですが、と言い残して奥へと退く永琳を余所に、穢れた月の姫は、旧き月の残滓を静かに、永遠とも思われるほど長い須臾の間、見上げているのだった。

「あ、あの、姫」
 永遠の沈黙に耐えかねて、玉兎――鈴仙・優曇華院が均衡を破った。
 この玉兎は、来るべくしてきたのかも知れない、と輝夜は思う。
「あら、御免なさい。ええと……」
「レイセン、です」
「そうそう、鈴仙・優曇華院……長いわね、面倒だから、イナバで良いわ」
「え、ちょ! イナバぁ!? 短すぎます! というより、他の兎共と同じですか私!」
 重い腰を上げ、姫は射干玉の黒髪を引きずる。「そうよ。同じでいいじゃない。貴女此からこの永遠亭のイナバ達の一員になるのよ。玉兎だからって特別扱い一切しません。みんな可愛い私のペット♪ かいぐりかいぐり、とっとの目♪」
「ぎゃっ、姫、御無体な!」
 鈴仙に抱き付き頭と耳をなでくりまわす輝夜を障子の隙間から覗き見て、永琳は姫の打てば響く機転に改めて舌を巻く。と同時に、姫の直感、とやらに不吉の予兆を拭い切れないでいた。姫の直感が外れる事は滅多に無いのだ。

 明けない夜が明け、全ては終わり、また始まった。
 永遠亭を―――輝夜を護る為に施された永遠の魔法は解け、永遠亭は新たな歴史を刻み始める。
 部屋の片隅には、月光、真の月の狂おしい程の魔力を一身に浴びた優曇華の盆栽が佇んでいる。生憎と、まだ実はならない。
 嗚呼、思った通りだわ。
 輝夜の心を奪ったのは蓬莱の玉の枝、ではない。実を付けた優曇華の木など飽きる程見て来たのに、今更心奪われる事も無い。朽ちる事も枯れる事も無く、全き輝きを放ち続ける其れは、永遠を生き続ける姫には退屈な代物だった。
 侘びさびって物が解ってないのよね、月人って生き物は。
 輝夜の袂が、蓬莱の玉の枝に触れる。
 袂には、優曇華の卵がぼんやりと輝いていた。
 永く付き合わせたわね。姫は呟く。
 終わるのは一瞬なのに。
 袂の上で、卵が孵り行く。少しずつ、一つ、また一つ。
「私の罪は永遠の薬を飲んだ事ではないのだわ。ましてや、月の民を捨て、穢れに塗れた道を選んだ事ですらない――須臾を浪費し、永遠の中に微睡んでいた事」
 永き殻より解き放たれ、須臾を、また須臾を生きて行く穢れた月の姫。
 永き時を孕み、須臾に散り、流転する命。
 新しく、強く輝く月を仰ぐ輝夜の眼前を、羽化したばかりの蜻蛉が月光に薄い羽根を煌めかせながら月へと昇っていった。
 -了-



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